パラオ旅行記

2009年のパラオ旅行記です。
ロックアイランドの美しい海や、ペリリュー島を中心とした太平洋戦争の戦跡などを紹介しています。

HOME/出展および著作権
ペリリュー島戦跡マップ
コロール島周辺戦跡マップ

 

パラオ共和国について
ミルキーウェイ
ジェリーフィッシュレイク
無人島ランチ
ホテル一泊目
ペリリュー島への道
北波止場~千人洞窟
     ~ケヤキ陣地?跡

生き残り兵投降の地
  ~WWII博物館(病院跡)

発電所跡
西カロリン海軍航空隊
  ペリリュー島司令部跡1

西カロリン海軍航空隊
  ペリリュー島司令部跡2

95式戦車~オレンジビーチ
零戦52型
   ~西太平洋戦没者の碑

ペリリュー飛行場
学校跡~捕虜収容所
海軍の短20センチ砲
中川州男大佐自決の地~帰路
ホテルに残る遺構1
ホテルに残る遺構2
ホテルに残る遺構3
夕景
ホテル二泊目
イルカと遊ぶ1
イルカと遊ぶ2
パラオ港(ミナトバシ)と
     パラオの車

ヤノズでご当地ランチ
海軍通信隊跡
クロコダイルファーム
     ~南洋神社

パラオ短大(旧パラオ医院)
アサヒ球場と裁判所
     (旧南洋庁舎)

ミュンススコウジョウ
     ~KBブリッジ

ホテルに残る遺構4
ホテル内フィッシュポンド
プライベートビーチ
ホテルに残る遺構5
ホテル内トレッキング
   ~ホテルに残る遺構6

ホテル内ガーデン&スパ
ふるさとレストラン
   ~市街に残る日本建築

ペリリュー島への道 (090616)

 

 

ペリリュー島への想い

 パラオ旅行の最大の目的が、ペリリュー島でした。太平洋戦争における激戦地のひとつで、たった六十五年前、今はのどかなこの島で、日米共に多数の死者を出した凄惨な戦いが繰り広げられました。日本軍は水際で敵の撃退に失敗するとバンザイ突撃を敢行してすぐに玉砕する、とサイパン等の経験からたかを括っていた米海兵隊の司令官は、当初三日で片を付けると豪語していたそうですが、日本軍は飛行場を有するこの島を本土爆撃を阻止する水際として重要視し、陸軍の精鋭部隊をわざわざ満州から配備すると共に、それまでの作戦の見直しを図り島全体を要塞化し、徹底抗戦を図りました。(詳細は関連書籍やwikipedia「ペリリューの戦い」を参照のこと) 米司令官の甘い見通しと、日本軍の底知れない粘り強さが双方合わせて約13000人の戦死者という未曾有の悲劇を生みました。
 この島には今も数多くの戦争の傷跡が残り、当時命を懸けて使命を全うすべく奮戦した日米両軍の悲劇を今に伝えています。ですがそれらも波や熱帯の植物に少しずつ侵食され、日を追うごとに往時の姿を失いつつあります。

image

ペリリュー島へ出発

 午前九時、ホテル(パラオパシフィックリゾート)の桟橋からツアー会社のスピードボートに乗る。ペリリュー島へはここから約一時間の船旅だ。やや雲の多い天気だが、時おり覗く陽射しはえらく強いのでホテルのプールハットでタオルを借りていく。このホテルはレンタルノートに名前を記載すればバスタオルを外に持ち出せるのだ。この選択は正解だった。ボートは恐ろしいスピードで進むのでかなり寒い。それにペリリュー島では途中で雨が降ったりもしたので、バスタオルがあって本当に助かった。皆さんもオプショナルツアーに参加するときは、是非バスタオルを用意すべきだ。色々便利だし助かる。
 桟橋を出て十分も経たないうちに、フィリピン海に向かって設置された砲台跡に到着。このような砲台は今も各地に残り、内部はトンネルで繋がっていたそうだ。

image

錆びた砲台

 砲台は鉄の扉で隠されていて、海からは見えないようカモフラージュされていた。今は扉もなく、内部の鉄筋が剥き出しになっている。

image

サンゴ礁のゼロ戦1

 砲台から更に十分ほど海をいくと浅瀬に入り、しばらくして白いポールが見えてくる。ゼロ戦が沈んでいる場所だ。船が座礁しないためと、ゼロ戦そのものの目印のため設置されたと思われる。とにかく水深が浅いので、ボートはゆっくり近付いていく。やがて海面に突き出たプロペラと、そこに留まるアジサシの姿まではっきりと見えてきた、と思う間もなくアジサシは飛び立ってしまった。
 写真だとはっきりしないが、少し引いた所から見ると、うっすらと翼の痕跡らしきものが海底に拡がっているのが分かる。

image

サンゴ礁のゼロ戦2

  機首部分。記録では、この機体のパイロットはなんとか脱出し、岸まで泳ぎ着いたらしい。

image

サンゴ礁のゼロ戦3

 船の上からでも、たくさんの熱帯魚が機体の周囲を泳ぎ回っているのが見える。この機体は魚たちの住み処やアジサシたちが羽を休める場所を供しながら、余生を送るのだろう。
 今はほとんど原形を留めていない機体だが、個人サイト「鎮魂の旧大日本帝國陸海軍」内「鎮魂のペリリュー島」三頁目の中ほどに、1991年発見当時の写真が掲載されている。(音が出ます) 比較すると、あまりの変わりように年月の残酷さを思い知らされる気分だ。

※ サイトはこちら  http://cb1100f.b10.coreserver.jp

海の道標

 

image

クジラ島

 ボートは波を蹴立ててどんどん進む。目印のひとつ、クジラ島が見えてきたのでもうじきペリリュー島だ。この島は統治時代からクジラ島と呼ばれていた。

image

おじさんアイランド

 右の写真は、クジラ島のすぐ近くにあるオジサンアイランド。メタボ気味なおじさんが頭を右にして横たわっているように見える。さすがに統治時代はそう呼ばれてはいなかった模様。
 Googlemapの航空写真を見ると、オジサンアイランドと、その真上のオモカン島を細長いビーチが結んでいるが、これが有名なロングビーチ。干潮時にのみ、美しい白砂のビーチが出現する。自分たちは残念ながら満潮で行けなかった。
 ペリリュー戦の最中、なかなか増援を寄越さない司令部に直接情報を届けるべく、十七人の糸満出身兵と友にペリリューからコロールまで泳いで辿り着いた陸軍少尉がいた。途中米軍の空襲をたびたび受けて、少尉以外は全員戦死。彼らはほとんどの区間を泳いだが、干潮時を見計らってロングビーチや他の浅瀬を歩きもしたという。空襲を避けるため、移動(泳ぎや徒歩)は夜間に行い、コロールまでは四日掛かったそうだ。しかしコロール島の司令官はなかなか決断せず、増援は遅れに遅れた挙げ句、ペリリューの守備隊は玉砕した。

image

ペリリュー島に到着

 ようやくペリリュー島のノースドック(北波止場)に到着。統治時代はガルコル波止場と呼ばれていた。対岸にゲドブス(ガドブス)島が見える。この島にも日本軍は飛行場を築いていたらしい。
 ちなみにこの港は2005年、日本から520万米ドルを供与されて補修された。他にもパラオ最南端の有人島であるアンガウル島との連絡船を二隻、日本財団が寄贈している。名前は大和丸と日本丸。自分たちが来たときは、大和丸が停泊していた。

image

ノースドックの遺構

 北波止場の南には、統治時代にペリリュー島とゲドブス島とを結んでいた橋の橋脚が残っている。

image

北波止場の風景

 北波止場に建てられている看板。奥に見えるのは港湾事務所兼集会所。一階の吹き抜けに置かれたベンチに、パラワンが数名集まって談笑していた。かつての激戦地とは思えないほど平和な風景だ。
 ほんとうに、平和っていいな…。

image

いざ、島内へ

 港に待機していたワンボックスカーに乗り込み、いざペリリュー島ツアーへ出発!(ちなみにこのワンボックスカー、後部座席の扉の取っ手がなくなってて、外からは開けられなかったw 別に困らなかったけどな!)

ペリリュー島観光許可証

 ちなみにペリリュー島を観光するには許可証が必要です。ですがペリリュー島に行くには、普通はツアー会社に申し込んで行くしか方法が無く、そのツアー代に許可証代も含まれてるので、こちらが申し込む必要はありません。

image image