パラオ短大(旧パラオ医院) (090617)

ビョウイン
今回パラオを旅先に選んだ理由のひとつが「漫画のジパング関連の施設の痕跡を辿りたい」だったのですが、ドラマの舞台であるコロール島の海軍病院(当時はそもそも海軍病院が本当にあったのか、更に言えばコロール島にあったのかもリサーチ不足で不明)はまず残ってないだろうと諦めてました。
でもペリリュー島を案内して下さった日本人ガイドさんから「パラオ短大は昔の病院をそのまま使っていて、今でも南洋庁等主要な建物と繋がっていた地下トンネルが残っている」と聞き、これは見に行かねば!と思いました。
海一さんに「パラオコミュミティカレッジに行きたい」と行ったら、「ああ、ビョウインねビョウイン」とすぐに返され、地元の人にもここが元病院であることがよく知られているようでした。

カレッジの中へ
上の写真がオフィス入口。ネットで見つけた文献にパラオ医院の昔の写真が掲載されていたのですが、全く同じ!(当たり前ですが) 後日記録写真集を購入したらその写真もやっぱり同じ!(当たり前ですが)
受付で「japanese touristだけど中の写真を撮ってもいいですか?」と聞くと笑顔で快諾。かなりドキドキだったけど、治安の良いパラオではいきなり変人が学校に乱入して事件を起こすなんて考えられないんだろうな。治安の良い国で良かった!
で、オフィスを抜けると中庭をぐるり取り囲む平屋建ての校舎が。なんとなく見覚えのある構造です…テラスに廂もついてるよ! 椅子もある! 作者さんもここに来たのかな?

教室=病室
白とパラオの海の色に塗り分けられた校舎。教室はかつての病室だったのだろう。思ったより窓の数は少なく、形も小さい。暑いんじゃないかと心配されるだろうが、パラオでは市街地でも日陰に入ると驚くほど涼しく、ホテルでもほとんどエアコンつけなくて済むほど。やはり気温そのものが問題なんじゃなくて、建物の多さ、緑の少なさとヒートアイランド現象がいけないんだなあ…と思い知らされた。
当時はもちろんヒートアイランド現象なんてないから、この程度の窓でも充分涼は取れたんだろうね。むしろ快適だったはず。病人怪我人に蒸し風呂地獄とかあり得ないし。

校舎の中庭
テラスから中庭を臨む。パラオの伝統建築「バイ(集会所)」を模した休憩所があり、学生さんたちが寛いでいた。平和な光景だ。ペリリュー島とか見てきたから余計にそう思う。平和って本当に素晴らしいよ!
統治時代についての雑考


左上の写真の奥、テラスの突き当たりが私たちが入って来たオフィス。庇に吊るされた教室の案内板は、パラオの伝統工芸の木彫りだ。 ホテルのページでも述べたが、この木彫は統治時代に美術教師としてパラオに赴任していた土方久功先生が、文字を持たないパラワンの神話や歴史を後世に伝えるための手段として、また産業振興の一助として考案し、広めたものだ。今日、この技術は立派なパラオの伝統文化へと成長している。
パラオコミュニティカレッジ(パラオ短大)のサイトでは沿革に「日本統治時代の職業訓練校が前身である」と明記している。(2013年12月の時点ではサイトが一新されており、この記述はなくなっている)
統治時代、日本政府の機関である南洋庁は、南洋諸島島民の生活向上のため、各島に学校やこうした訓練校を作った。「南洋群島写真帖」には、地元の生徒達が九九や日本語の授業をしている写真が掲載されている。パラオ、ヤップ、サイパン等の南洋の島々は部族間で言語が異なるなどの理由から経済的発展が遅れていたが、日本語を共通語としてスムースな経済活動が行われるようになったという記述もある。また少々差別的だが、この本には「南洋群島の住民は自然に恵まれすぎているため従来勤勉さに欠けていた」とあり、その対策として伝統工芸品や農産物の品評会を頻繁に開催し、勤労意欲の向上を図っている、と書かれていた。
パラオでは御木本真珠が真珠の養殖に乗り出したり、パイナップル農園(缶詰め工場も)、サトウキビ農場(製糖工場も)、かつお節工場等、様々な産業の振興が行われた。これらの産業が根付いていれば、外貨獲得手段はほぼ観光のみ、日常の生活物資もほぼ全て輸入というパラオの現状も少しは改善していたのではないだろうか。まあ、色々な意見があるけどね。聞く人によってはこの話も「ただの植民地政策だろう、日本人は悪い奴!」となってしまうだろう。でもスペイン、ドイツ、日本、アメリカの統治を受けてきたパラオの人たちが、なぜとりわけ日本に親しみを持ってくれているかを考えれば、一方的に搾取するだけの統治でなかったのは明白だと思う。
海軍病院
話がそれた。それたついでにもうちょっとそれてみる。
パラオ医院は南洋庁の管轄、つまり国立病院である。これとは別に、パラオには海軍病院があったらしい。海一さんによれば、陸か海かは不明だが、アラカベサン島ミュンススコウジョウ近くにmilitary
hospitalの門柱が残っているという。また「パラオの海軍病院」で働いていた日本人看護師から聞き取りをした記録もある(YOKOのパラオニュース内のエッセイより)。アラカベサン島は海軍の島だし、海一さんの言っていたmilitary hospitalは、おそらく海軍病院だったのではないだろうか。
なお残念なことに、建物自体は米軍占領時に取り壊されてしまったそうな。門柱は主要道沿いに建っており、黄色と青の激しい色彩なので、移動中の車の中からも簡単に分かった。再訪したときには是非訪れてみたいと思う。
オフィスからまっすぐテラスを進むと、やがて左に小さな中庭が見えてくる。そこで振り返ると、校舎のすぐ脇に金網で覆われた地下通路入口がある。(右下の写真)



地下通路
コロール島は米軍からの激しい空襲に晒されて、一面焼け野原となってしまったそうだ。空襲を予想してか、コロール市内の主要な建物は地下通路で結ばれていたという。このトンネルは南洋庁に続いているらしいが、当時の南洋庁の建物は取り壊されて既に存在しない。残っているのは、道路を挟んで南洋庁の向かいに建っていたた南洋庁パラオ支庁の建物だけである。いったいこのトンネルはどこに続いているのだろう。ちなみに、現在パラオ支庁舎は地方裁判所として使われている。
パラオのツアー会社、ロックアイランドツアーカンパニー(ペリリューツアーはここにお願いした)の社長が地元の知人と一緒に調査に入ったらしいが、大量のコウモリとゴ○○リに阻まれ、途中で諦めたそうだ。
コロール市内には他にも日本統治時代の建物が今も数多く残されており、現役で使われている。(パラオ国立博物館は南洋庁観測所、旧国会議事堂は電信所発電室、社会文化庁分館は南洋庁気象台等) かつてこれらの建物同士を連絡していた地下通路は、今どうなってるんだろうな。

カレッジ中庭
オフィスを出てから右に折れ、突き当たりで中庭を見た所。南国の花が咲き乱れる穏やかな空間。ここで未来のパラオを背負って立つ若者たちが学んでいるんだなー。がんばれ!!!
カレッジ内あれこれ
左は上の写真を撮った位置から、オフィスのある建物を見上げたところ。パラオ短大のエンブレムが刻まれている。右はオフィスに通じるドア。写真を撮ろうとしたらちょうど学生さんが出てきて、苦笑しながらそっと扉を閉めてくれた。すまぬ!

