ペリリュー飛行場跡 (090616)

ペリリュー飛行場の戦闘
昼食を終え、またワンボックスカーにガタガタ揺られて次はペリリュー飛行場跡へ。
ここは現在もセスナ機等の小型機専用の飛行場として稀に使われている。日本軍がここに飛行場を建設した当時は、滑走路は計二本あった(右図)。現在残っているのは一本のみ。今はジャングルの中に埋もれている航空隊司令部も、こうしてみると滑走路を結ぶ道路のすぐ近くに建っていたことが分かる。
この飛行場を死守するため、昭和十九年九月十五日、迫り来る米軍の戦車に対し肉薄攻撃、つまり地雷を抱えた突撃を敢行している。高野少尉、村上曹長らに率いられた斬り込み隊が棒地雷を手に挑み、かろうじて撃退するも八十名の部隊は全滅。しかも物量で圧倒的に優位な米軍は、新たな戦車を送り込んできた。同日守備隊は虎の子の95式軽戦車十七台全てを投入する作戦を展開。午後四時三十分、戦車の周囲にロープを張り、そこに掴まった決死斬込隊もろとも飛行場から水際に展開する米軍に対し総攻撃を仕掛けた。そして、全滅した。
被弾しながらも火炎瓶や手榴弾を手に這い寄ってくる日本兵、内臓を零しながらも軍刀を携え立ち向かってくる日本の将校たちの姿は、米軍の兵士たちをパニックに陥れたという。将校はともかく、兵士の中には特別に訓練を受けた軍人でもない、数カ月前に徴用されたばかりの一般人も大勢いた。この島を守りきらねば家族のいる本土が連合軍に蹂躙されるという危機感が、彼らをここまで駆り立てたのだろう。だが彼らの努力や願い虚しく、本土は度重なる空襲を受け、あげくに原爆を二発も喰らい、焦土と化すのである。

飛行場跡
現役滑走路といってもこのとおり。島民が普通に生活道路として使っており、轍が刻まれている。

滑走路の誘導灯
でもちゃんと、滑走路としての機能はある。これは誘導灯。
余談だが、2005年に天皇皇后両陛下が慰霊のためサイパンを御訪問されたが、この計画が持ち上がったとき、御訪問される候補地のひとつにサイパン同様の激戦地であったこのペリリュー島も挙がっていた。しかし滑走路の整備状況が宮内庁の定める安全基準に満たなかったため、選考から外れてしまったとのこと。

刻まれた轍
この空港にもフィリピンのバラエティ番組の制作会社が築いたたけし城のなりそこないみたいなセットが組まれていた。
滑走路の中には幾筋か道ができており、それを辿り再びジャングルの中へと入り込んでいく。

舗装路
ペリリュー島の典型的な舗装路。島の岩盤を削っただけでは舗装路とは言わないと思うのだが、パラオ的にはこれでも立派な舗装路らしい。
ちょうど飛行場を過ぎた頃に雨が降り出し、石灰岩の路面はとても滑りやすくなっていた。