パラオ旅行記

2009年のパラオ旅行記です。
ロックアイランドの美しい海や、ペリリュー島を中心とした太平洋戦争の戦跡などを紹介しています。

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ペリリュー島戦跡マップ
コロール島周辺戦跡マップ

 

パラオ共和国について
ミルキーウェイ
ジェリーフィッシュレイク
無人島ランチ
ホテル一泊目
ペリリュー島への道
北波止場~千人洞窟
     ~ケヤキ陣地?跡

生き残り兵投降の地
  ~WWII博物館(病院跡)

発電所跡
西カロリン海軍航空隊
  ペリリュー島司令部跡1

西カロリン海軍航空隊
  ペリリュー島司令部跡2

95式戦車~オレンジビーチ
零戦52型
   ~西太平洋戦没者の碑

ペリリュー飛行場
学校跡~捕虜収容所
海軍の短20センチ砲
中川州男大佐自決の地~帰路
ホテルに残る遺構1
ホテルに残る遺構2
ホテルに残る遺構3
夕景
ホテル二泊目
イルカと遊ぶ1
イルカと遊ぶ2
パラオ港(ミナトバシ)と
     パラオの車

ヤノズでご当地ランチ
海軍通信隊跡
クロコダイルファーム
     ~南洋神社

パラオ短大(旧パラオ医院)
アサヒ球場と裁判所
     (旧南洋庁舎)

ミュンススコウジョウ
     ~KBブリッジ

ホテルに残る遺構4
ホテル内フィッシュポンド
プライベートビーチ
ホテルに残る遺構5
ホテル内トレッキング
   ~ホテルに残る遺構6

ホテル内ガーデン&スパ
ふるさとレストラン
   ~市街に残る日本建築

ヤノズでご当地ランチ (090617)

 

 

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Yano'sへGO!

 海一さんと別れてから、ショッピングセンターと台湾資本のパレイシアホテル内DFSでお土産を買い込み、出発前から一度は足を運ぼうと計画していた地元スーパー、ヤノズへとてくてく歩いていきます。短距離なのに超炎天下で辛かったです。着いてみたら思ったよりこじんまりした店で驚いた。

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ローカルフードマーケット矢野

 パラオには日系人や日本の名前を付けてる人が多いけど(海一さんもそう)、まんま日本語が書いてあるとは思わなかった。しかも縦書き! なんだか嬉しいな。

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どこか懐かしい

 店に入ると、陳列棚に調理済みの食品が雑多に並んでいる。店内にイートインがあるので、買ったものはその場で食べられます。レジ奥に四畳半ほどのスペースがあって、そこにでかいテーブル(昔の食堂やラーメン屋にありそうな合板の机)が置いてある。もちろんテーブルには醤油などの調味料や割り箸が標準装備。外国のローカルショップなのに昭和の雰囲気満点で、妙に居心地が良くて落ち着ける。小学生の頃、近所のおばあちゃんがやってたかき氷屋とか、そんな感じ!
 右の写真に写っているのは、タロ芋とかを蒸したり茹でたりしたもの。パラオの主食です。

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シャコ貝のココナツミルク煮

 総菜は透明容器に詰めたものや、写真のようにステンレスのケースから取り分けたものを購入します。これは一押し、クラム(シャコ貝)のココナツミルク煮。うまー!でした!!!
 パラオでは資源保護のためシャコ貝を養殖しているので、煮物とかお刺し身とか日常の食卓に普通に並ぶし、観光客にもご当地食材として人気です。

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今日のお昼ごはん

 この日の昼食、二人分。左端に写っているのはタロ芋を蒸したもの。丸ごとも売ってたけど、食べやすく切り分けてあるのを買いました。タロ芋は見掛けよりずっと量が多くて、持ち帰ってホテルでつまみました。
 左上はスパムおむすびとソーダ水のゼリー。ゼリーは見た目のどぎつさからは想像もできないくらい美味しかった!(これは友人が買ったのだが、ひとくち食べた彼女の第一声は「しまったこれ普通にうまい!」だった。そのときは「何を期待して買ったんだこいつ」と思ったが、後日彼女のブログを見て理由が判明。彼女は微妙な味のお菓子を「美味しいよこれ、食べてみなよ!」と相手に食べさせ、その反応を楽しむという趣味の持ち主だったのだw そりゃー残念だったよねw)
 ゼリーの右隣はキュウリとツナとワケギのサラダ。そしてクラムと熱帯魚の唐揚げ。唐揚げにはポン酢醤油がついてきた。どれもうまー!でした!!! ものすごく美味しいって訳じゃないけど、味付けが日本人にすごく合ってて、ほっとするというか、落ち着く味なんだよね。「普通に」美味しいの。安くてうまい定食屋の味とか、オフクロの味的な。
 奥に見えるのは、お店で売ってたポッカのグリーンティー。飲んでみたら甘くて最初はびっくりしたけど、暑い土地で飲んだからか、これもかなり美味しかった。

余談:日本統治時代と現代の日帛関係

 ところで、パラオには日本の統治時代に大勢の日本人が移住してきたのだが、そのとき彼らはキュウリや茄子などの野菜を持ち込んで、パラオ人たちに安定した食料を確保する方法としての農業を教えた。決して欧米の植民地のように安い労働力として搾取したりしたのではありませんよ念のため(パラオ人たちから土地を借りる際も、正式に契約を結ぶこと、互いに契約を守ることなどを南洋庁が厳しく指導していた。当時の土地貸借の契約書が資料として残っている)。
 他にも、日本人はパラオに産業を興そうと様々な努力をした。パイナップル農園だけでなく缶詰め工場も一緒に造ったし、鰹節工場や水産試験場などを造り、職業訓練校(のちのパラオ短大。これは短大の改装前のサイトにも沿革として記載されていた)も設立した。
 だが、これらの施設はアメリカ統治時代に、日本の影響を一掃するために悉く破壊されてしまった。しかし、パラオの日常会話の中に日本語が残ったり、日本名を付けるパラオ人たちが今なお大勢いたり、食生活を始めとする生活習慣の中に日本の影響が見て取れたり、なによりもパラオ人の親日感情を見る限り、その効果はなかったように思われる。
 パラオはアメリカから食料などほとんどの資源を輸入するようになり、戦後パラオに産業らしい産業は育たなかった。だが近年では、パラオ本島(バベルダオブ島)に日本の援助で周回道路が建設されたこともあって農地の開拓が行われ、農業が盛んになりつつある。そうなると環境破壊が心配されるが、日本人が設立したパラオのNPO(ドルフィンズパシフィックを運営している団体)が、環境教育事業を通しパラオの子供たちの環境意識が高まるよう、様々な活動を行っている。また草の根レベルでノニ、タロ芋、タピオカといったパラオの農産物を用いた加工生産品の技術指導を行い、地元産業の育成に力を入れている日本人たちもいる。なんだか六十五年前の再現みたいだ。
 日本の援助がすべて良い結果を生んでいる訳じゃないけど(焼却炉とか)、これらがパラオの発展につながるといいな。がんばれパラオ!