米軍戦車~学校跡~捕虜収容所跡 (090616)

米軍の水陸両用車
島内には日本軍だけでなく、米軍の戦闘車両も残されている。これはLSTと呼ばれる水陸両用車。日本軍の戦車が一台しか残されていないのに対し(理由はこちらのページで解説)、これはあちこちで見掛けた。

米軍のシンボル
まだ塗装がうっすらと残っている

無限軌道
無限軌道(キャタピラー)部の拡大

統治時代の教育について
奥に見える白い柱は、学校の門柱。現地ではパラワンの子供たちが通ったペリリュー公学校と説明されたが、どうもそれは北波止場近くにあったらしい。(かつての写真はこちら) 日本人の学校だったのか、それともパラワンの学校が島内に二箇所あったのだろうか?
統治時代は、日本語を話せない島民の子供たちと日本人との教育を一緒にするのは無理との考えから、政府は島民の子供たちのため各統治領にこうした公学校をたくさん作った。南洋諸島は各島間で言語が異なり、これが島々の経済発展の妨げになっているという理由で、日本語による教育が行われた。島民に高等教育は行われなかったとする文献もあるが、ここパラオでは優秀な青年たちを東京に送り、見聞を広めさせるなどしていた。(留学させたとの記述もあり)
「日本人はずるい、私ももっと勉強したかった」と笑いながら話す老人もいる。かつてパラオの公学校で学んだ生徒たちだ。

捕虜収容所跡
ペリリュー島で戦闘が始まる直前、守備隊隊長中川大佐は島民を強制的に疎開させた。そのため米軍がこの島を占領したとき島民はひとりもおらず、学校ももちろんその機能を果していなかった。
占領直後、学校の敷地は捕虜収容所となった。当時のフェンスが今でも雑木林の中に残っている。
ちなみに、当サイトで何度か紹介している舩坂弘氏はこの収容所で大暴れしたらしいけど…本当なのか!?

もうひとつの戦跡
上の写真の位置から左を向くと、米軍のLSTを超えた先に、丘へと上っていく整備された階段が見える。