中川州男大佐自決の地~帰路 (090616)

ペリリュー神社
砲台から車で少し移動し、ペリリュー神社へ。1982年に建立されたばかりの新しい神社だ。清掃も行き届いており、とても綺麗だった。島民との間に様々な齟齬があると聞いて(wikipedia「ペリリュー神社」の項目参照)少々心配だったのだが、ほっとした。写真は撮っていない。
神社は小高い丘の斜面に建っており、そこに向かう坂の途中から分岐する草むした道がある。道の先が中川大佐自決の地(とされている場所)だ。車は入れないので徒歩で向かう。雨はまだ降り続いている。
九十九折りの道(道幅は車が通れるほど)を上っていくと、突き当たりに碑が見えてくる。

鎮魂の碑
中川大佐が自決したとされる洞窟の前に建てられた、鎮魂の碑。煙は雨の中苦労して点火した線香のもの。碑の周囲には日本酒や煙草、そしてどこからか集められた鉄兜や手榴弾、銃弾などが供えられている。

サクラ・サクラ
現在では、昭和十九年十一月二十四日の午後五時、中川州男大佐、村井権治郎少将、飯田義栄少佐が守備隊玉砕を伝える「サクラ・サクラ」の電文を打ったあと古式に則り割腹自決を図ったのは(介添を務めたのはそれぞれの副官である)、ここより更にジャングルの奥へと進んだ洞窟陣地であるとされている。守備隊の本部が置かれ、守備隊隊長中川大佐が指揮を執ったのもその場所だった。残された根本甲子郎大尉らはパラオ本島の司令部宛に「生存者で決死隊を編成し、これより米軍に突撃をかける」旨の電文を午後六時に送り、傷だらけの五十五名は日が落ちるのを待って突撃を開始。
米軍公刊史によると、彼らが全滅したのは二十七日の午前七時頃であったという。それは米軍がペリリュー島を完全に制圧下に置いた瞬間でもあった。
洞窟の入口には、誰が吊るしたのか、色褪せた千羽鶴の名残が揺れていた。

日本兵が燃えた煤
慰霊碑の近くには、同じような洞窟陣地の入口がいくつも口を開けている。右上が黒くなっているのは、占領した米軍が残存兵掃討のため、洞窟の中にガソリンを流し込み、火炎放射器を使ったあとだ。日本兵が燃えた黒い煤が、いまでも残っているのである。

暗い地の底で
洞窟内を火の海にしただけでなく、米軍は念を入れて入口を爆破し、ブルドーザーで埋めた。そこまでする必要があるのかとも思ったが、日本兵に対する恐怖がそうさせたのかもしれない。
かつて守備隊が掘った五百もの洞窟陣地は、今は二百程度しか解らなくなっている。それは戦闘後に行われたこれらの処理に因るところが大きい。所在の分からない洞窟の中には、今でも約三千柱の遺骨が眠っている。彼らの魂は死に際に家族や仲間と約束したとおり、靖国に集っているのだと信じたい。だが魂だけでなく、遺骨も祖国に還る日を待ち侘びているはずである。
これらの記事を建国記念日である二月十一日にアップすることになったのは偶然だが、なんだかそれに気付いたら涙が止まらなくなって困った。
鎮魂碑で黙とうを捧げたあと、小振りになった雨のなかを車へと戻る。これでツアーの日程は終わり。一路北波止場へと向かう。

ペリリュー島遠景
陽射しが傾きはじめた洋上から、遠ざかるペリリュー島を臨む。見れば見るほど平坦な島だ。そして中央にぴょこんと飛び出しているのが大山、中川大佐が指揮所を据え、そして自決した洞窟陣地のある山だ。

また会う日まで
右に見えるのはガドブス島。どちらもどんどん小さくなっていく。
さようなら、ペリリュー島。いつかまた、かならず来ます。

ホテルの入り江
約一時間の船旅を終え、見慣れた景色が飛び込んできた。ホテルの見晴らし台がある岬の小山だ。

この形は…
行きは気付かなかったが、ホテルの船着き場、なんだか不自然なコンクリートの傾斜の上に作られている。もしかしてこれも水上飛行艇に関する施設か?と思ってホテルのスタッフに聞いたら、やっぱりそうでした。ほんと、海軍基地の上に建ってるんだなあ、このホテル。

水上飛行艇の施設
桟橋から海中を覗くと、罅割れてはいるが傾斜がきれいに残っていた。
パラオパシフィックリゾートは、海軍基地の施設をまるまる再利用して建てられている。埋め立てた桟橋や海岸線など、当時の基地の見取り図とぴったり重なるのだ。

展望台からの眺望
ホテルの展望台から桟橋を見下ろしてみる。港にしてはやけにスロープが末広がりに感じるんだが、どうでしょう?